新型コロナウイルスの猛威に世界中が「自粛」モードの近ごろ。
志村けんさんや岡江久美子さんが新型コロナによって亡くなるなど、ウイルスの恐ろしさを現実味を持って感じることも増えてきました。
もしかしたらこの記事を読んでくださっている方の中にも、身近な方が患われて辛い思いをされているかもしれません。
亡くなられた方全員のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。
そんな中報道で感じる違和感
この状況なのでニュースも日々コロナ一色なわけですが、報道に触れる中でどうしても違和感を感じている言葉があります。
それは
「コロナが憎い」
という言葉。
亡くなられた芸能人と交流のあった方などが言われることが多いのですが、どうも引っかかるんですね。
気持ちがわからないわけではありません。
自分が親しくしていた友人知人を突然奪われたショックと悲しみが言わせるのでしょう。
それは共感できます。
でも、コロナってウイルスなんですよね。
決して意図を持って誰かを「殺した」わけではなく、まして「人間を苦しめてやろう」と思っているわけでもなく、
そういった性質を持ってそこに存在しているだけなんです。
「コロナで突然死んでしまうなんて悲しい」
わかります。
「コロナが怖い」
わかります。
百歩譲って
「コロナなんて存在しなければ良かったのに」
もわかります。
ただ、どうしても「コロナが憎い」だけは飲み込めないんです。
「コロナのせいで亡くなったわけじゃない」とか言いたいわけじゃないんです。
「憎い」って言われてもコロナからしたら「ただ存在してるだけなのにそう言われても」ってことだと思うんです。
タンスの角に指をぶつけて「タンスが憎い」って言っているようなものというか。
極論、タンスに頭をぶつけて誰かが亡くなっても「タンスが憎い」なんて言う人ほぼいないと思うんですよね。
感情的に「憎む」対象ではないウイルスに対して、感情を発露させた言葉を述べているのを見ると、どうしても「ドラマチックに振る舞いすぎている」という風に感じてしまいます。(本人にその意図はないとしても)
ドラマチックにすることは事実を歪め、不必要に相手を巨大な敵に仕立てあげます。
そして、無意味にそれを攻撃することによる徒労を生むでしょう。
誰かや何かを失った大きな悲しみや不安を「攻撃することで」解消しようという反応自体は理解できますが、先行きの見えない状況のなかでそれを繰り返していては、徒労によって自分の精神自体が先に参ってしまいます。
いま私たちにできることは
「亡くなった人がいる」
「苦しんでいる人がいる」
「亡くなって悲しい」
「苦しんでいるのを見るのが辛い」
それらの事実と事実に即した自然な感情を受け止めながら、劇的になりすぎることなく、感染拡大を防ぐ行動を粛々と遂行していくことではないかと思うのです。